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第18回総会(平成29年4月28日開催) 講演摘録
西郷せごどん」と鳥羽伏見の戦い
講師:木村幸比古氏
(霊山歴史館 副館長)

 
  • 今日は、“「西郷どん」と鳥羽伏見の戦い”をテーマに、西郷隆盛と伏見の地は大変縁が深いという点について話をさせていただく。
 @二条城から大坂城へ(徳川慶喜の思い)
  • 慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が明治天皇に政権返上を奏上したいわゆる大政奉還のあと、後に慶喜は二条城から退城することになる。
  • 慶応3年12月12日昼ごろから、会津藩(京都守護職)、桑名定敬(京都所司代)、新撰組の面々が集まったがこの会議は難航。その夜、慶喜は二条城で重臣を集め大坂城へ下る決意をし、そこで慶喜は次のように述べたと言う。「我々は逃げ出すのではない。我に深謀があってのことだ、ひとまず大坂城まで下り心を決めたい」と。そして、城内で酒樽を割って皆でくみ交わしたという。また、慶喜は退城する際には正門である大手門から退場するのではなく裏門から退城し、家臣に自らの不戦の気持ちを示したという。
  • 一方、新撰組は14日大坂天満宮へ宿陣すると、慶喜からその日の夜に伏見の警備を命じられたため、新撰組は伏見奉行所(今の桃陵団地付近)に本陣を置き、土方歳三が指揮をとっている。
  • 慶喜は、父が徳川御三家の一つである水戸藩藩主徳川斉昭、母が有栖川宮の吉子女王であり、いわば徳川と天皇家の血が半々という血筋的にサラブレッドであって非常にプライドが高かったという。その徳川慶喜が大政奉還によって徳川家を潰す立場になるわけであるから、その時の慶喜の気持には大変なものがあったと推察される。
 A西郷が軍議
  • 29日、三条邸(梨木神社)へ岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、広沢兵助、井上馨が集まり討幕について軍議を開いた。そのとき西郷隆盛は「戦争に入ればこちらが不利だが、いかに玉(玉座)を取るかである」と述べたと言う。王座とは天皇の椅子のことであり、それは「錦の御旗」(皇軍のシンボル)があれば勝てることを意味している。
  • その時、旧幕府軍の兵士の総数15000人に対し、新政府軍は5000人で、旧幕府軍は海軍、陸軍ともにかなりの勢いを温存しており、旧幕府軍の兵士の中には「大坂にいる薩摩兵1人斬るごとに15両の賞金をかけよう」と言う者まで現れたという。しかし、慶喜は戦渦の中で京都の地を焼きたくない気持ちを持っていた。
 B新政府樹立の戦い
  • 慶喜の大政奉還により徳川幕府260年の長期政権は崩壊し、王政復古の大号令によって、幕藩体制は刷新され明治新政府が誕生した。その頃、薩摩は旧幕府の領地返納を求め、新政府の財源の確保を画策したが、旧幕府側はあくまで財源は各藩均等の割り当てにすべしと訴え、結局、武力倒幕の薩摩をむかえ討つことで蜂起した。
  • 慶応4年(1868)正月3日、伏見の地では、新政権誕生に向けた決戦の火ぶたがいよいよ始まり、その鳥羽の戦いで戦場が伏見市街へと広がり、淀の戦いとなっていったのである。
 C鳥羽の戦いで火ぶたをきる
  • 慶応4年(1868)正月3日夕方、新政府軍の主力の薩摩兵1500人、長州兵1000人は東寺から進軍、この時、西郷は東寺五重塔から遠眼鏡で戦況をながめていたという。一方、旧幕府軍の主力は伏見奉行に本陣を置き、新撰組はここに陣を張った。小枝橋で双方のにらみ合いが続き、ある時、薩摩兵が空に向け銃を発砲したのを契機に戦闘がはじまり、鳥羽の戦いが火ぶたをきった。
 Dアーネスト・サトウの評
  • 幕末のエピソードについては、イギリス公使館通詞の「アーネスト・サトウ」の回想録(一外交官の見た明治維新)に記録されており、幕末の貴重な資料となっている。それによると「勝海舟は、私たちに大君(将軍)派が事を早まった結果、内乱が起こる恐れがあることを懸念しているといった、旗本の間に秘密の回状が回った。・・・・誠忠の士は慶喜の命に抗して江戸向島に集合せよ、といった激文だった。幕府の軍隊は給料を払えといって騒いでいた。京都の動乱は不可避の情勢にあった。実際、古い制度の終末がきたものと思われた」との記録が残されている。
 E錦の御旗
  • 戦の状況を左右した「天皇の御旗(錦の御旗)」は、岩倉具視が儒者に命じて図案化したものである。新政府軍は、「錦の御旗」を手に入れたことで皇軍となったが、一方、慶喜の母は有栖川宮吉子で天皇家血筋であったにもかかわらず賊軍扱いにされ、慶喜は失意。さらに淀藩の稲葉、藤堂、彦根の寝返り、紀州徳川の出兵取りやめることにつながっており、「錦の御旗」は戦況に少なからず影響を及ぼしている。
 F戦況
  • 鳥羽の戦い、伏見の戦いの二つの戦いから鳥羽伏見の戦いとよばれるが、その勝敗を決した要因の一つに武器の性能の差がある。
  • 新政府軍が装備していたのは最新式西洋銃であったが、それに対して旧幕府軍は旧式古式銃であった。武器としての性能の違いと合わせて、旧幕府軍の旧式古式銃を風下から発砲すると、発砲の際に出る火の粉が風により押し戻され、旧幕府軍は火の粉を顔に浴び苦戦。また、軍装も袴に斬込の姿で機能性が悪かったという。
  • さらに、伏見の戦いでは、薩摩軍が御香宮神社の裏山から弥助砲(やすけほう)を用いて旧幕府軍陣営を狙い撃ちして勝利している。
  • このように武器の性能の差は、戦況に大きな影響を与えている。
 G西郷隆盛の名言
  • 西郷隆盛は3回流された島から出てきた時に、禅宗の僧さんに師事し禅宗の考え方を身につけている。それが「即今(そっこん)、当処(とうしょ)、自己(じこ)」である。
  • 「今やらなければいつやるときがくる、今、すべきだ(即今)」、「物事をやる時に明日はどうなるかということを考えてはいけない(当処)」、「自分が確立していない時に物事をやってもうまくいかない(自己)」という意味である。
  • 西郷隆盛はこの禅宗の考え方を戦略に徹底的に活用しており、今自分が置かれている場所、状況の中でやるべきことを、自分自身で一所懸命にやって生きるということを座右の銘としていたのである。
  • 幕末の志士がすごいのは、例えば、村田蔵六(明治維新後に改名:大村益次郎)、桂小五郎(明治維新後:木戸孝允)のように維新後に名前を変え、一身二生(いっしんにしょう)し、変幻自在に生まれ変わっている点にある。また彼らの考え方の根底に、「共存共栄」、「現場重視」の精神が貫かれている点にある。
  • 最後に西郷隆盛の名言を紹介する。
〜 西郷隆盛の名言 〜

※「平日道を踏まざる人は、事に臨みて狼狽(ろうばい)し、処分の出来ぬものなり」
 いつも何が正しく、何が正しくないかを考えている人は、何かことが起きるとどうしていいかわからずあわててしまう。
※「政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つにあり」
 すばらしい国家の基本は、教育、体育、企業を興すにあり、この三つが大切である。
※「万民の上に位置する者、おのれを慎み、品行を正しく、驕奢(きょうしゃ)を戒め、節倹に勉め、職事に勤労して人民の標準となり」
 政治を司る人は、おのれを慎み、つね日頃から生活や態度を正しく、節約につとめ、仕事に励み民衆の見本となるべきである。
※「おのれに克つに、事々物々時に臨みて克つ様にては克ち得られるなり」
 自分に克つ強い精神で日頃からいなければ、いざというときは克つことはできない。
※「事大小と無く、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀(さぼう)を用うべからず」
 どんな大きいことも小さいことも、正々堂々と一生懸命に努力し、手を抜いてごまかそうとしてはいけません。


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